長篠設楽原古戦場の織田信長本陣と徳川家康対武田勝頼戦の馬防柵

長篠設楽原古戦場の馬防柵 おすすめ 観光 スポット
信長・家康×武田勝頼 決戦の地 長篠設楽原古戦場の馬防柵
記事内に広告が含まれています。

新東名高速道路 下り線 長篠設楽原PAには「織田信長 本陣跡」という場所があります。

織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が戦い、戦国最強と言われた武田軍に大打撃を与え、滅亡のきっかけとなる「長篠・設楽原の戦い」の舞台となった場所で、織田信長の本陣があった茶臼山です。

信長本陣は一番高い場所であって、その下には設楽原の決戦場があるようです。

最強の騎馬隊の対策のために築かれた「馬防策」も再現されているという事で、現地に行ってみる事にしました。

スポンサーリンク

長篠・設楽原PA 信長本陣

愛知県新城市富永住居田33-3
0536-25-7710

信長本陣

新東名高速道路 下り線 長篠設楽PAは、三河国の長篠城をめぐり武田と徳川が激戦を繰り広げた場所とあって、家康や戦国グッズが多く置かれていました。

その敷地内には「織田信長本陣」があるという事で、掲示物などを見ながら行ってみました。

織田信長本陣

階段を上るとすぐに行けますが、どうやらここはまさに殿様席で、下に降りた所で家康は戦っていたようです。

信長がなかなか助けてくれなくて、必死に武田と戦っていた頃ですね。

長篠・設楽原合戦屏風絵図

現在地は地図の左上。

信長本陣からの眺め

見える景色は横の山だけ。

あの丘には織田信忠や織田信雄の陣があって、最前線はもっと左の方。

これは行くしかないでしょう。

信長本陣鳥居

ここはスマートICだと思ってたら違って次まで行かなくてはならず、次が岡崎東ICになるのでかなり走って戻って来ました。

120キロ制限の新東名で往復1時間弱(汗)

名古屋方面からだと生き返り新城ICで大丈夫ですが、東京方面から来る場合は、新城ICで降りて古戦場跡をめぐって、徒歩で織田信長本陣へ登って来るのがいいかもしれません。

織田信長本陣にある神社の鳥居の先の坂を下ると設楽原だと思いますし、パーキングエリアにも階段がありました。

どうする家康のドラマで岡崎体育が演じた鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が、「長篠城がヤバい」と伝えるために岡崎の家康の所まで走ったと言いますが、携帯で「今どこ?」って言える環境の現代では考えられない事です。

長篠の戦い

天正3年武田信玄の死後、武田家を継いだ勝頼が甲斐の国(山梨県)から15,000人の兵を率いて長篠城を取り囲みました。

これが長篠・設楽原の戦いの始まりです。

長篠城主 奥平貞昌は500人の兵と共に籠城し、武田軍の猛攻に耐えますが落城寸前の危機的状況となってしまいます。

そこで奥平家臣 鳥居強右衛門が岡崎城の家康に助けを求めに走ります。

岡崎城には織田信長の兵30,000人が来ていて、長篠城救援の準備をしていました。

その事を伝えるために鳥居強右衛門は長篠城に走りますが、直前で武田軍につかまってしまいます。

長篠城門前にはりつけにされて「助けは来ないと言え」と言われますが、「援軍は来るからもう少し頑張れ」と言い殺されてしまいます。

奥平軍はその言葉を信じ、長篠城を守ります。

そして38,000人の織田・徳川連合軍が到着します。

設楽原の戦い

設楽原の戦いの配置

現地に着いた連合軍は軍議を開き、武田の騎馬隊と対峙するために都合のいい地形の設楽原を決戦の地とします。

家康の陣地

ここが家康の物見塚で、向こうに見える丘に武田軍15,000人がいた事になります。

両軍の間の平地には連吾川が流れています。

写真の真ん中に白い橋がありますが、あれが練吾川です。

このあたりは比較的攻めやすい地形でしたので、武田軍は最強の山県昌景の陣地がありました。

連合軍も本多忠勝・榊原康政・大久保忠世・大久保忠佐など三河家臣団の猛将が待ち構えます。

連吾川

連吾川は今は整備されていますが、当時はどうだったのでしょう?

馬で飛び越えるには微妙な幅。

しかも田んぼでぬかるんでいますので、騎馬隊は橋を渡るなど一気には攻めて行けないような感じがします。

馬防柵

さらに連合軍は「馬防柵」という馬が通れない柵を2キロも作り待ち構えました。

しかも3重になっていたと言われています。

武田軍はあぜ道を通って来るしかないので、引き付けて火縄銃3,000丁を放つという作戦です。

この山の奥に先ほどの織田信長本陣があります。

酒井忠次の奇襲作戦

これだけ厳重に構えても、敵が攻めて来なければ役にたちません。

そこで信長は徳川四天王の1人酒井忠次に「大きく迂回して武田軍の背後に回り、鳶ヶ巣山にある長篠城を見張る砦に奇襲をかけろ」と命じます。

酒井忠次は奇襲に成功し、長篠城を奪還します。

これによって武田軍は退路を断たれ、突撃を決意します。

馬防柵

馬防柵は互い違いになっていて、人の出入りは出来るようになっていました。

民家の後ろの山が武田勝頼の本陣があった場所です。

近いですね。

15,000人が一気に攻めて来るのですから、想像するとドキドキしてしまいます。

これだけ厳重でも最強の騎馬隊なので、突破されてしまいます。

しかし、山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次など、武田軍の名だたる武将が次々と討死し、武田軍は敗走する事となってしまいます。

この激しい戦いで戦死者は武田10,000人、連合軍5,000人と言われています。

周辺には戦死者の墓が多くあり、毎年供養が行われています。

設楽原歴史資料館

愛知県新城市竹広 字信玄原552
0536-22-0673
https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/yokoso.html

設楽原歴史資料館

設楽原古戦場跡の近くに新城市設楽原歴史資料館があって、ゆかりの地の地図や資料がもらえます。

また、火縄銃などの展示品を見る事ができます。

家康の手形

徳川家康の手形もありますよ。

まとめ

長篠・設楽原の戦いは、戦国最強の武田家が滅亡するきっかけとなった戦いで、奥平貞昌の長篠城の攻防と、奥平の援軍に織田・徳川連合軍が加わり、武田対連合軍の設楽原の戦い発展するという2つのストーリーがあります。

実際に50,000人が戦った場所で、攻める側と守る側の視点に立ってゆかりの場所をめぐってみました。

全国にはこのような場所は多くあると思いますが、長篠・設楽原古戦場は当時の光景が想像できる場所でした。

コメント

Optimized with PageSpeed Ninja
タイトルとURLをコピーしました