千葉県勝浦市の勝浦城から伊豆の河津へ逃れ、三島で徳川家康公に見染められ側室となった「お万の方」は、徳川御三家の紀州藩祖 頼宜公と水戸藩祖 頼房公の母です。
お万の方は法華経への信仰が篤く、日蓮宗において多くの功績を残しています。
浄土宗である徳川家において他宗派を信仰する事のご苦労と、山梨県身延へ来られるまでのいきさつなど、お万の方の墓所のある「大野山 本遠寺(ほんのんじ)」を実際に訪ねてお話を伺って来ました。
このお寺にはお万の方の足の形が残されているという事です。
★お万の方の故郷 勝浦城の記事はこちら
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大野山 本遠寺の場所
山梨県南巨摩郡身延町大野839
JR身延線 身延駅下車 徒歩15分
本遠寺について
日蓮宗 総本山 久遠寺に程近い路地を入った所に静かに佇む本遠寺は、慶長13年(1608)身延山久遠寺22世「日遠上人」が草庵を構えて開山しました。
17歳で57歳の徳川家康公の側室になったお万の方は、22歳の時に日遠上人を師と仰ぎ信仰の指導を仰いできました。
「法華経(ほけきょう)」とはお釈迦様の教えが書かれた物で、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれています。
日蓮聖人は「法華経こそが困難な時代を生きるあらゆる人々を救う最も尊いお経である」と説き続けました。
しかし、徳川家は浄土宗。
日遠上人は「世の乱れや転変地変が起きていいるのは法華経を信仰しないから」と家康に直訴し、怒りを買い処刑を言い渡されてしまいました。
安倍川で処刑される朝、お万の方は水垢離(みずごり)をし、意を決して白装束で家康公に「私も一緒に殺して下さい」と最後のお願いに行きます。
その覚悟に処刑は取りやめになりました。
そして、日遠上人は久遠寺法王を辞し隠楼します。
その日遠上人のためにお万の方が造営されたのが大野山 本遠寺です。
その他にも久遠寺の大鐘など、万金を投じて多くの物を寄贈されています。
しかし、徳川家は浄土宗ですので、お万の方が日蓮宗を信仰する事は正式には認められず、「養珠院(ようじゅいん)」として出家するのは家康の死後、お万の方が42歳の頃だったという事です。
それでも徳川家しとては賛成しかねる部分も大きくて、久遠寺を浄土宗にしてしまおうなどという話もあったとか。
そこで、お万の方を援助したのが2人の親孝行な息子でした。
紀州家と水戸家がお堂を増設し1636年に完成、大野山 本遠寺と命名されました。
その当時の建物は焼失してしまいましたが、紀州公により現在の本堂が再建されました。
現在残っているのは、国の重要文化財となる本堂(1650年完成)と鐘楼堂(1664年完成)のみ。
その後、三代将軍 家光公により別格本山の称号が与えられ、数少ない将軍家お墨付きの寺となり、徳川家の家紋である三つ葉葵の着紋が許され、250石を与えられました。
これはすごい事だと思いました。
家光公は幼少期にお万の方に大変可愛がってもらった恩義があったので、お万の方の願いを断れなかったのではないか?という事らしいです。
それにしても、お万の方の思いの強さと、実際に力があったという事を感じる事ができました。
「お万の方の故郷 勝浦から来ました」と言ったら特別に中を案内してもらう事ができました。
日蓮像はお万の方が「32歳の日蓮聖人」にこだわって作らせたもので、日蓮聖人が千葉の清澄寺で「南無妙法蓮華経」と唱えたのが32歳の時なんだそうです。
日遠上人と養珠院様の像もありました。
来てよかった。
お万の方の足形
白い四角の中にお万の方の足跡が残っています。
下の四角にはっきりと見えますね。
推定22cmだそうです。
こちらがお万の方が足を洗われた井戸です。
足を洗った後に檜の板に足を乗せた時の後が残っていたので「どうしようか?」と評議した結果、だれも見下ろしたり踏んだりできない天井の板として使おうという事になり、お賽銭箱の上にあります。
もう1つの跡ですが「家来が膝を着いている状態の膝の跡?」と説があるそうなのですが、「それしては近くない?」という見解もあって、「お万の方の兄上が来た時の物か?」など、諸説あるようです。
お万の方のお墓
1653年8月21日77歳で紀州藩邸で亡くなられ、頼宣公、頼房公はじめ多くの方々に付き添われご遺体は遺言により本遠寺に運ばれました。
8月に4日もかけて運んできて大丈夫だったのか?という話もあるのですが、おそらく旧暦なので10月頃ではないか?
さらにその年は寒かったという統計があったから運べたのではないか?という事でした。
ご遺体は頼宣公、頼房公じきじきに運び出され、富士川のほとりにて荼毘にふされました。
翌年に紀州頼宜公が母の菩提を弔うためにこの墓標を造設しました。
付近には紀州徳川家の供養塔などが残っています。
お万の方のお墓は東京の池上本門寺にもあります。
そちらは分骨されたものなのだそうです。
女人禁制の七面山に女性が登れるようにした
本遠寺には「五社神社」という神社がありました。
ここは元は八幡様や妙見様が祀られた神社で、本遠寺が火災にあった時に七面大明神像を何とか持ち出す事ができて、ここで預ってもらう事になったんだそうです。
その後、地元の方が整備してくれて5つの神様を祀る神社となりました。
山岳信仰の霊山として人気の七面山に登るのはとても大変ですので、七面大明神に近場でお詣りしたい方はここで出来るそうです。
七面山は身延山の近くにある1989mの山で、七面大明神(七面天女)という龍神が棲まわれています。
日蓮聖人が妙石坊の石の上で説法をしていると、見慣れない若い女性がいました、日蓮聖人が水を与えると女性は龍の姿になり「私は七面山に住む七面大明神です。身延の山と法華経を守護しています。」と言って七面山の方に飛んで行ったという伝説があります。
日蓮聖人は七面山に登詣を希望していましたが、病により叶いませんでした。
お万の方は日蓮聖人の思いを果たすべく登詣を希望しますが七面山はは女人禁制でした。
女の神という事と女性が低く見られていたという事が考えられます。
お万の方は「法華経にはすべての人が平等に成仏できると書いてあるし、七面大明神は法華経によって女人成仏したのであるから、女性がだめなのはおかしい」と考えました。
そして、ふもとの白糸の滝で7日間身を清め、女性で初めて七面山に登る事を許されました。
その功績により、女性も七面山へ登詣する事が出来るようになりました。
それまでには3回の登詣と約20年の期間があったのだそうですが。
私も今回初めて七面山に登り、お寺に泊まってご来光を拝んで来ました。
★七面山奥之院の宿坊で参籠し御来光を拝むという貴重な体験
https://siroyakiblog.com/shichimenzan-okunoin/
まとめ
千葉県勝浦から伊豆へ逃れ、徳川家康公の側室となったお万の方は、法華経への信仰が篤く日蓮宗 総本山 久遠寺のある山梨県身延町で多くの事が語り継がれています。
中でも大野山 本遠寺はお万の方が開基され埋葬されている最もゆかりのある場所です。
今回は運よく貴重なお話を聞かせていただく事ができました事を感謝します。
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