徳川家康には多くの側室がいて、その相関図を調べても微妙に一致しなくて混乱してしまいます。
歴史にありがちですが。
私が暮らす千葉県勝浦市は家康の側室の1人お万の故郷なのですが、実はお万がもう1人いたりしていますので、私なりに整理してみました。
徳川家の家系図
![徳川将軍家系図](https://siroyakiblog.com/wp-content/uploads/2023/04/tokugawa-kakeizu.jpeg)
先日、芝増上寺の安国殿で掲示してあった徳川将軍家の家系図です。
家康の子供の男の子(その母)
・長男 信康(瀬名)21歳没
・次男 秀康(万)秀吉の養子へ
・三男 秀忠(愛)2代将軍
・四男 忠吉(愛)
・五男 信吉(都摩)
・六男 忠輝(茶阿)
・七男 松千代(茶阿)6歳没
・八男 仙千代(亀)4歳没
・九男 義直(亀)尾張徳川家始祖
・十男 頼宣(万)紀州徳川家始祖
・十一男 頼房(万)水戸徳川家始祖
お万が2人います。
今回のお話は次男秀康の母の万ではなく、頼宣と頼房の母の「養珠院 万」です。
頼宣は徳川御三家である紀州徳川家の初代であり、頼宣の孫が八代将軍吉宗となります。
頼房は同じく徳川御三家である水戸徳川家の初代であり、頼房の子が水戸黄門の光圀です。
勝浦城址
![お万の方像](https://siroyakiblog.com/wp-content/uploads/2023/04/yojuin.jpg)
勝浦城は天分11年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠(ときただ)が入城しました。その後は2代時通(ときみち)、3代頼忠(よりただ)の居城となります。
お万は天将5年(1577)4月4日正木頼忠の娘として現在の千葉県勝浦市に産まれます。
しかし天将18年(1590)豊臣秀吉による小田原城攻めに成功した徳川家康が江戸に入ると、本多忠勝が大多喜城に入るなどして勝浦城も攻められ落城。
勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、里見氏の安房に逃れます。
当時14歳のお万は炎上する城を後に、幼い弟を背負い母と40メートルもある八幡岬の断崖絶壁に白布をつなぎ合わせて垂らし海まで下りました。
![お万の布さらし](https://siroyakiblog.com/wp-content/uploads/2023/04/oman-nunosarashi-1.jpg)
地元では「お万の布さらし」と言われています。すごい高さです。
ここが勝浦城のあった場所で、現在は八幡岬公園として整備されています。
敷地内は城郭の名残が残っています。
![八幡御崎公園](https://siroyakiblog.com/wp-content/uploads/2023/04/hacimanmisaki.jpg)
向こう側は勝浦海中公園がある方向で、この勝浦城と向こう岸の吉尾城という城で海からの敵から守っていたと言われています。
お万のその後
お万は崖下の磯場で待つ小舟に乗って逃れます。
陸を右に見た先が伊豆方面です。
波が高く、潮が早い海ですので本当に命からがら逃れたのだと思います。
諸説ありますが、最終的には伊豆の韮山に落ち着きます。
母が伊豆の蔭山氏と再婚をした機会に沼津本陣で徳川家康に見染められ、江戸城に召されて家康の側室となりました。
文禄2年(1590)、17歳の時です。
江戸城では「於万の方」「蔭山殿」と呼ばれていたそうです。
慶長7年(1602)3月、京都伏見で長福丸 後の紀州徳川家の祖 頼宣を産み、さらに翌8年には駿河で徳千代 後の水戸徳川家の祖 頼房を産みました。
紀州家・水戸家は徳川御三家として名高く、水戸黄門で知られる水戸光圀はお万の孫にあたります。
八幡岬公園の場所
千葉県勝浦市浜勝浦221
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まとめ
千葉県勝浦出身で有名なのは読売巨人軍の丸佳浩選手ですが、もっと昔から伝わる偉人といえば養珠院 お万の方です。
徳川家系図では晩年の頃の側室なので大河ドラマ「どうする家康」には出ないかもしれませんが、そういう人がいたのだという事を伝えていきたいと思っています。
お万は家康の死後に仏門に入りました。
日蓮宗においても多くのエピソードを残した養珠院 お万について、ゆかりの地は県外にも残されています。
先日山梨県身延町の大野山 本遠寺を訪れ,たくさんお話を伺って来ました。
その時の投稿です。
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